現在の日本では「頭の良さ」と「学力」は比例するものではありません。確かに、お子さんはあなたが理解できない微分積分をしっかり理解できるかもしれません。しかし、だからといって子どもが親よりも「頭がいい」わけではありません。親と子どもの年齢差を、少なく見積もって二十五年としましょう。これはすなわち、子どもと比べて親には二十五年分の経験差があるのです。経験は本来頭の良さに結びつくものです。理不尽な人のやり過ごし方、人の心の機微を読み取る力、突発的に起きる様々な難問の対処法……。これらについて、子どもが大人に敵うわけがありません。年齢を重ねるにしたがって、人には様々な知恵や美しいものの味わい方が蓄積されていきます。親はこのことに誇りを持てばいいのです。子どもの学力に追いつかないことくらい、なんだというのだ、という気構えが必要です。
某大手化粧品会社のキャンペーン広告を手がけている画像処理会社ではこんな話を聞いた。「撮影の時に顔一面に吹き出物ができていたので、画像処理を施して、1つずつ吹き出物を消したことがあります。手間は大変でしたが、出来上がりはきれいなものです。そのモデルの名前を聞いたらびっくりするでしょうね」その名を聞いて、確かに驚いた。透明感のある健康的な肌の持ち主だとばかり思っていたからだ。技術を駆使すれば、毛穴は見事に消失し、透明感のある肌も実現できる。そんな広告・宣伝をうのみにして、「あんな肌になりたい」と真剣に考える女性もいる。「自分たちでやってはいるのですが、それをそのまま信用されては困る。あくまでイメージ映像なのですから」とは、大手化粧品会社の広報担当者の弁だ。土台が美しくなければ、どんなにテクニックを駆使しても化粧が映えないことを、女性たちはよく知っている。白いだけではダメで、より美しい、化粧映えする肌を求めている。江戸時代には白く塗ることで白い肌を実現していた日本女性は、時を経て、もともとの肌を白くすることに夢中になり、ついには毛穴まで撲滅しようとしている。女の欲望に限りはない。
「デスエデュケーション(死についての教育。死について考えたり、死がもたらす悲嘆などについての教育)」が最近注目されているが、観念的にとらえても死は理解できるものではない。やはり実際の死に出合い、体験することによって初めて、死というものかどういうものか、体得することができるのだろう。死の体験に照応する葬儀のプロセス、以上に述べた葬儀の機能というのは、実は、人が家族などの死に出合ってたどるプロセスに照応している。人は、死に出合ったときにどういう形で葛藤するのだろうか。死を前にして、悩んだり、心を騒がせたり……。死亡直後、そこに遺体はあるが、遺族側はどうしていいかわからない状態である。そのプロセスが、臨終から通夜までのプロセスである。昔は、その遺体を死者としてではなく、あくまで生きているかのごとく扱った。たとえば、その人に食事を出してみたり、話しかけてみたり、夜は寝ずの番をしたり。あるいは生前、死者に対して充分にしてやれなかったことを、その代償行為をして尽くしてみたり。